「親不知海岸までの道をたどって」
自 平成17年8月27日
〜 至平成17年9月9日
たらっぺ山の会 石橋 (筆)

目  次
T はじめに
U 日本海縦走を始めるにあたって
V 登山活動
  8/27(土)西武秩父→西穂高山荘
8/28(日)西穂高山荘→奥穂高山荘
8/29(月)奥穂高山荘→槍ヶ岳山荘
8/30(火)槍ヶ岳山荘→三俣蓮華山荘
8/31(水)三俣山荘→烏帽子小屋
9/01(木)烏帽子小屋→船越小屋
9/02(金)船越小屋→針の木小屋
9/03(土)針の木小屋→種池山荘
9/04(日)種池山荘→冷池山荘
9/05(月)冷池山荘→五竜山荘
9/06(火)五竜山荘→白馬山荘
9/07(水)白馬山荘停滞
9/08(木)白馬山荘→栂海山荘
9/09(金)栂海山荘→天嶮日本海
W 旅が終わって


T はじめに

 山を本格的に始めて7年、自分なりには浅くもなくとりわけ深くもなく登山という遊びをやってきた。学生時代から20年間、燃え続けたサッカーに比べたら努力したり、それほどの喜怒哀楽はなかったけど他人と競争することもなく、大好きな自然の中にずっといられることはこの上なく素晴しくなにより他人に左右されることなく行動できることがなによりも新鮮だった。体力の衰えなどもありサッカーをこれ以上やるには厳しく、この先も継続できる登山を今後やっていこうと昨年あたりから考えていた。今までの自分の山行は会社の休みの関係上、長期のものは少なく制約の多いものがほとんどであった。日本の北アルプスの山々ですら満足に歩いたことがないことに気づき会社を退職する寸前にいっちょ日本海まで歩いてみることを考えついた。
U 日本海縦走を始めるにあたって

 北アルプスといっても穂高・雲の平・黒部・剣・鹿島槍・白馬と広範囲であるので上高地を出発地点として到着地点は親不知海岸とする。
現在は写真家・ガイドの志水哲也が高校時代に歩いた夏季・北アルプス全山縦走は表銀座から上高地に入り焼岳から穂高連峰〜黒部五郎〜薬師〜剣〜黒部ダム〜水晶〜雲ノ平〜針ノ木〜鹿島槍〜白馬〜犬ヶ岳〜親不知という42日間の記録である。
自分は上高地から入山し親不知までとし、三俣蓮華から薬師・立山方面は省き、一日の行動時間を9時間以内として計算すると13日で走破できることになった。多くの要因で停滞することは多々あるが。
夏山の慌ただしさも静まってくる8月後半を出発予定とする。計画準備を進めていると山ボードの仲間で白馬のホテルで働いている飯塚から同行したいと告げられた。
白馬岳の山頂で会うことを約束してはいたが、まさか今回の山行を共にすることになるとは頼もしいというか不安も実に多くなってきた。彼はテント泊も登山靴を履いたことすらなく自分の負担も増大してしまうのではないか!でもそんな負担も彼の穏やかな性格であれば長い山行で相殺してくてることを期待して快諾してしまう。

 彼との打ち合わせで食料は個人持参でテント泊という骨格がきまり朝夕の2食と昼の行動食は個人で用意することになりテントは自分でガスは飯塚が担ぐことになる。
しかし飯塚は登山用具をほとんど所持していなかったのである。ザックと雨具、シュラフは自分のお古で間に合わせてもらいあとは揃えてもらう。登山靴だけは入念に選ぶよう指示した。あとは気持ちを整えつつ山行の準備をするだけだ。ザックは25kgでおさまり少しばかりほっとした。山行中は2人だけど歩いている時は色んなことを考えられるので将来のことをシュミレーションしてみようか…前の会社で過ごしたことを省みてみようか行動中の楽しさや辛さよりも頭の中の時間の有効利用について想像してみた。ただ僕たち二人は時間の制約もなく社会からの制約も全ての面で心配する必要がない。急がなくても一歩一歩着実に歩いていこう。何年か前から実家に帰りたいという気持ちが強くなりこのままだと帰ることなんてできない…そのことが退社した大きな要因だ。ただ辞めるということはまた新たな社会の一員として機能していかなければならないので特に山で働いている人を観察してより主観的になって自分をシュミレイトできればと考えた。今回は山小屋で働いている人を良く観ていくつもりだ。
今までの登山とは少し違う北アルプスの山なみを人、自然との出会いを大切に歩を進めていきたいと考えた。
 小旅行的に例えるなら「人力で観光」てなことだろうか、出発直前に二人とも5分刈りにして気合をいれる。

 トラさんみたいな僕たちの北アルプストリップが開幕だ!
V 登山活動    
8月27日 晴れ
  西武秩父(5:00)→西穂高山荘(16:15)


相棒と八王子駅で待ち合わせ電車(鈍行)で上高地へ向かった。せっかくの上高地なので河童橋を渡って西穂の登山口に回り込む。相棒がおばちゃんに「そんな荷物背負ってお兄ちゃんたちどこまで?」相棒「日本海までです」おばちゃん「え〜 そんな休んだら会社くびになっちゃうよ。前のお兄ちゃんも?」 相棒「もうクビだから全然オッケーです」
喧騒が冷めやらないうちにスタート。登山道に入るとほとんど人に合わず夏休みも終わり昨日の台風の影響か。相棒とは山ボードに5回ほど行っただけで他の付き合いは全くなし。
私の高校時代の同級生の大学の友人で初めての山が谷川の西黒沢本谷滑降でそれ以来、山を滑ることにはまったらしい。サッカーをやっていただけあり足腰は安定している。
約二週間分の食料が肩にくい込み一歩一歩が重いが二人とも会社を辞めたせいか心は軽く、なんとも言えない開放感。相棒曰く「転職なんて楽勝ですよ!」とあとのことは考えてない様子。西穂の小屋まで樹林帯を3時間程で到着。
山小屋、テント場は混雑。小屋でテント場の受付をして今後の行き先を記入すると「ニホンカーイ!!」と小屋のアンちゃんに言われた。テントを設営して外で自炊して相棒は7時には就寝。自分は山に入った初日は体が自然に順応できず寝付きが悪いことが多く明日は今回の山行中一番の山場である。相棒の体力面が少し心配である。

8月28日 晴れのち曇り
  西穂高山荘(5:30)→奥穂高山荘(15:00)


4時起床。相棒は寒くてよく寝られなかったとのこと。ラーメンを食べ5時に出発。 
中高年多し。自分たちもペースが早くなく歩調があうのでスムーズに進むことができる。
西穂までのピークは独標などの小ピークが連なるためアップダウンが続くがそれほど悪くはない。相棒もしっかりと歩けている。3時間で西穂着。西穂は5年くらい前に茂島さんと歩いたことがあるので難なくこなせた。ピークからこれからの登路がはっきりと見渡せ、ジャンダルム、奥穂の勇姿も素晴しい。これからがこの旅の核心部だと気を引き締めた。相棒は自分のスノーボードの滑降前の顔つきなどで今後現れるものがどのくらいのレベルかわかっているらしい。相棒に頑張ってもらうよう少しオーバーに装う。間ノ岳、間天のコルは難なく通過、前方に見える天狗の頭の逆層のスラブは少しいやらしかったが歩いてみると登りのためかさほど労せず天狗の頭へ着く。天狗のコルへ急降下して畳岩尾根ノ頭へ登り返す。コブ尾根の頭で休みを入れる。もう目の前がジャンダルムだが遠くから見るよりも小さいと予想に反している。どのパーティーも休みを入れていて登っている姿は見えない。時計は12時なのでスタート。躊躇なくジャンダルムを直登する。すぐに10m四方のピークに達し前進し端まで行くとかなり切れ落ちている。シュリンゲが付いてはいたがクライムダウンするには自分ができても相棒には無理だ。いくら悪路といっても所詮、一般縦走路こんな悪いはずがない... どっかトラバース道があるはずだとすぐに引き返す。幸いに相棒はジャンダルムを登り初めて間もないらしく下からルートの確認をお願いする。岳沢側に明瞭な登山道があることがわかり相棒に先に回り込んでもらい自分は易しい箇所からクライムダウンして合流する。何故か岩に登りたくて突っ込んでしまったがこの長い旅を楽に進めるには細かな所で安全にかつ無理のないルート取りをしなくてはいけないと反省する。ロバの耳を通過すると馬の背リッジだ。前のパーティーが詰まって渋滞しているので飛騨側をトラバースして一般道に合流した。もう奥穂は近くに見えているので相棒を山頂で迎えようと先を急ぎ、最後の岩稜帯ではあるもののなだらかな稜線をつなぎ奥穂高岳に到着だ。ガスが出てきて視界は悪くなってきた。しばらくするとしかめっ面の相棒もやってきた。よしよしよく頑張ってくれたよと心の中で優しく微笑んであげる。風も出てきたので穂高岳山荘までの下りを急ぐ。奥穂は二回目で一回目は井上さんと岳沢から南稜を突破してピークを踏んだ。あの時は夏で一度目は大久保も一緒で大雨で敗退して二度目で成功した。たしか山頂は雨で寒かった記憶があった。  
山荘で手続きをしてテントを張るが、ここの天場は狭くて張りにくかった。夜は寒くて飛騨側の白出のコルからの風が強くテント内で5℃だった。相棒は夜中にコンロを焚いていた。寝袋に入ると今日歩いた道が思い浮かび、また何故か早くも懐かしくも感じられる。疲れている証拠だ。それにしても飯塚勝也良くぞ頑張ってくれた。これで日本海までいける確証を得ることができた気がしたのでぐっすり眠る。

8月29日 晴れ
  奥穂高山荘(5:30)→槍ヶ岳山荘(15:15)


4時起床。寒さかつ疲れもあり朝の雰囲気は疲れ気味。今日も槍ヶ岳までなので長くキレットを越えなければ行けないので難所が続く。5時スタート。個沢岳から前穂の北尾根が朝日に輝き美しい。写真では何回も目にした姿である。眼下左下には滝谷も見えてきた。
日本でも代表する岩場ではあるが最近は地震の影響で岩や支点の状態が悪く取り付くクライマーの数もめっきり減ったようだ。自分の印象は風が強く、日当たりも悪くすっきりとしたルートがなく登りたいという気はあまりしなかった。個沢側と対照的だ。昔の山屋が強いのはこんな悪いところ登っているからなのかと考えた。しばらく歩くと北穂山頂。日本で一番高い山小屋の番人は夏休み最後の連休明けの為か布団干しをしている。コンパクトな小屋である。ここからは槍までの登路がはっきり見渡せる。大キレットの登り返しもきつそうだ。最低鞍部に向けて出発するが筋肉痛が出てきて下りが堪える。ビブラムをよくグリップさせて進む。3時間で南岳小屋着。小屋前で休んでいるとヘリの荷下しがあるので小屋の中に入って待機して欲しいとのこと。小屋でコーヒーを飲みゆっくりとくつろぎ出発。ここからはアップダウンの少ない縦走路で快適である。ガイドが70〜80歳のおばあちゃんと二人で槍に向かっている。ザイルを繋いでいるがしっかりと歩いている。たいしたものだと感心した。槍の穂がどんどんと迫ってきて僕たちに力を与えてくれる。今日も無事にテントサイトへ到着。小屋へ受付と水の補給へ行く。さすが槍、多くの中高年登山者でごった返している。テントで軽く乾杯をして山場を越えたことですやすやぐっすり。明日は三俣山荘までの下りの占めるルートなので少し安心できる。

8月30日 晴れのち雨
  槍ヶ岳山荘(7:15)→三俣蓮華山荘(15:00)


5時に起床して槍の山頂へ行く。ルートはガラガラ。昨日は夕方まで登山道が渋滞していた。早く来て正解だ。山頂へ上がると初日の出を撮ろうとする人が10人ほどいた。360度遮るものがなく雲海の上にいる。何故かこれから進むべき方角を目にすると僕たちが歩いていく様子が映し出されているようだ。槍ヶ岳。遠方から望んでも穂が出ているだけで登りたいと考えたことはなかった。でも中高年が一番登りたい山として掲げている理由がなんとなくわかった。それと山頂から千天の出会いまで延々と続く北鎌尾根。10分ほど荘厳な時間を過ごし、槍を後にした。西鎌尾根を双六へ向かう。西鎌からの北鎌は天空にそびえるリッジがやけに登攀意欲を掻き立ててくれる。いつか登れれば。途中赤い荒々しい岩稜が見えてきた。少し煙がでている。硫黄尾根である。硫黄尾根は井上さんが単独で冬季に突破して槍から東鎌尾根に抜けたことを思い出す。よくもこんな悪そうなとこ歩いたもんだと改めて感心する。4時間で双六小屋に着く。すっきりと小奇麗で混雑してなくまわりの風景も今までの小屋とちがい心安らぐ小屋という印象。小屋の周りはいたる所メローな斜面が広がっている。滑り手にとっては楽園だ。自分自身のシュプールを斜面に描いてしまう。寺沢さんがいれば「いいなあ〜」を連発するはずだ。昼は牛丼を食べた。それがとてつもなくおいしかった。かつ700円で安くボリュームもある。小屋の人が暇そうにしていたので今夏の山の状況など聞く。天気が安定せず例年より来山者は少なかったようだ。すっきりと晴れず夕日などは良くなかったこと。ただ最近はリタイア組が平日にも入ってくるので混雑度が若干改善されていると話してくれた。また最近の若い人は夜になって雨が降って来ると山小屋に入ってくるなどやわになったと話してくれた。山小屋の従業員にしてはすごく穏やかで懐の深さを感じることができた。小屋番はツンとしている人が多いので。個人的には人が多いところは嫌いだ。今までの上高地から槍のように小屋は人であふれていて、せっかくの山に来たという気がしない。一人で山にはいると何故か寂しさは消える。都会の真只中で人ごみに囲まれると余計に寂しくなってくる。荒々しい岩肌の登山道も消え三俣蓮華を越えると本日の天場の三俣山荘が見えてきた。15時に着いたのでテントを張り装備の整理をする。近くに水場の水流があったので全身を清めることにする。うまれたままの状態でシャツを洗っていると5人のワンゲルらしきグループが通っていった。中に女の子が一人いたが下を向いたまま行ってくれた。気温に比べて水温は低く思わず声が出そうになった。きれいになったかどうかは別にして気分はすっきりだ。テントに入り飯にする。今日は余裕があったので相棒と反省と明日のことなどについて話をした。ひとつ気になるのはお互い汗くさいのは確かなのだが相棒の靴下のにおいだけは相当に臭う。綿の靴下で湿っているのが原因か、ただ単に臭うのか定かではないが。8時就寝。そのころから雨が降り出す。

8月31日 雨のち晴れ
  三俣山荘(6:30)→烏帽子小屋(15:30)


昨日からの雨は降り続いている。まだ8月なのに寒い。一枚多く着て雨具を羽織る。鷲羽岳が目の前にあるはずなのだが上部はガスがかかっている。ざれた道をアップがてら上がっていく。乾いていたらずるずる滑りやすい道だが湿っていて歩きやすい。1時間で山頂。雨は止まないがガスが切れたりで視界はある。けど雲ノ平方面は見ることができなかった。天上の楽園と期待していたのに残念だ。くだりは所々岩稜が出るので慎重に下る。もう今日で5日目なので歩く生活が日常となってきた。毎日歩けるということはなんと素晴しいことなのか。ただ一瞬たりとも辛いということはまだない。かみ締めて歩けと全細胞に言い聞かす。相棒に言わせると登山者はマゾだという。登山のレベルが上がれば上がるほどマゾ度も上がるらしい。でも困難なルートを突破することは快楽だと思う。世間一般の人はそう考えてないようだが。水晶小屋にザックをデポして水晶岳までピストンする。往復1時間で行ってこられた。ああザックがないとなんと軽やかなことか。小屋でカップラーメンをすする。水晶小屋は北アルプスで一番小さな小屋らしく「小屋」そのもの。受付の小柄な女の子は愛想がよく自分はそれほどでもなかったが相棒はストライクゾーンだったらしい。やけに菓子とか買っていた。そこに「ななかまど」という雑誌があり、三俣・水晶・雲ノ平の小屋を経営している伊藤さんが発刊しているものがあった。一読してみると面白かった。印象深かったところは山小屋という自然の中での利用客の傲慢さや現代人の大部分がロボットのようにそしてレール上に生かされていることや山小屋の売り上げ代金に応じて税を徴収することへの林野庁への訴訟など信念を貫いて生きている数少ない人間だとうらやましくも思った。山小屋の従業員に概して言えることはあまりにも主観的になりすぎて自己が固まりすぎてしまう風に感じられた。下界で世の中に流されすぎるのもどうかと思うが。人間は数多くの出会いの中から成長していくと思うのである程度は人とのふれあいも必要なのではと思った。小屋は発とうとするとザックと体が同じくらいのおっさんが水晶方面から近づいてきた。ザックは継ぎ足しだらけで靴も昔のキャラバンシューズで、少し話かけるとうれしそうに「昨日は赤牛の山頂にテント張ってすごく良くてただ水を汲んでくるのを忘れて往復4時間かけて水場を探しさらに水が溜まるのに1時間かかってしまったよ。これから三俣か野口五郎かどっちに行こうか」と尋ねられたが適当なこと言って遭難してしまうと責任問題になるので笑って「赤牛、今度行ってみます」と言って早急に再出発。相棒と人生ああなったらやばいぜと言い合うがあながち自分たちの将来?かと少し不安を抱く。           
真砂岳あたりから北アルプス裏銀座縦走コースとなり両サイドの景観が広がり右には表銀座の燕岳、左は赤牛岳が横たわってきた。ガスも明けてきて太陽も望んできた。そして気持ちの良い縦走路。14時に野口五郎に着くがここのテント場は昨年より利用ができなくなったとのこと。しかたなく烏帽子のテント場を目指すことになる。3時間の行程で烏帽子小屋に着く。烏帽子小屋の主人は人のよさそうな人で水を1Lサービスしてくれた。そうしてくれるとこっちも負けて菓子など多めに買ってしまう。相棒はビールだが。テント場の近くに池塘があり今夜は蚊が気になった。 

9月1日 晴れ
  烏帽子小屋(6:00)→船越小屋(15:00)


昨日、小屋からの帰り単独の小泉首相そっくりな人に出会った。今日小屋の前を通るとその人は小屋の前で準備をしていた。挨拶をすると「どこまで?」と尋ねられたので「日本海まで」と答えると「よく休み取れたね〜」と感心している風。相棒が会社を辞めて歩いていることを告げると「俺も長野の工場でもう定年で、団塊がここ数年で大量に抜けていくからアンちゃんたちみたいな年頃を募集し始めているよ」と小泉首相そっくりに励ましてくれた。思わず「小泉首相に似ていますね」と言うとさらにニコニコになり自分たちもニコニコで烏帽子小屋を発つ。相棒が自民党大勝ですねと言っている。自分も何故か応援してしまいたい気持ちになる。烏帽子岳は登山道から外れるが岩峰なのでザックをおいて往復する。ピークからはこれからの鹿島槍、大好きな剣岳が大きく目に映る。しばらくすでに秋空のもとたたずんでしまった。日本海に出るまでは過去の道のりを思い返さないようにしている。前進あるのみだ。船窪のテント場までは樹林帯での急降下・急上昇の繰り返しと花崗岩のざれた区間、高瀬ダム側の顕著な崩壊と登山道は非常に悪かった。テント場は点在していて山に張るのと等しかった。ただ樹林の中で高瀬ダムからの風もあり快適なサイトであった。実はこの旅に6年前に買った[24の瞳]を持ってきたのだが相棒に取られてしまった。
難しい内容ではないが三分の一くらいで挫折してしまった。山の上で心身清らかな状態で読んでおくことが大切だと持参した。悪天での停滞時のためにと純粋な物語を選択したのだ。旅もまだ半分に至らないので後半にお預けで主にテントに入ってからはラジオを聴いている。天気情報は夕方必ず確認することにしている。また朝はラジオを流すと長距離ドライバー向けの曲が聞こえてくる。演歌は好きではないが自分たちが学生時代の曲を聴くとあの当時を懐かしむ。現代社会から隔離されて人間本来の野生さや感受性が正常になってきたようだ。今日の夕飯はアルファ米にワカメースープと自家製梅干、塩ひとさじを入れて煮込んだおじやとイワシの缶詰である。梅干の酸味が利いて食をそそる。相棒はアルファ米の五目御飯とスープというパターンが多い。アルファ米にジフィーズのおかずは飽きるので缶詰やふりかけ、レトルトのカレーなどの重量はあるが栄養価の高い嗜好もまずまずの食料計画にした。特に良かったのは梅干で毎日食べていた。汗で失われた塩分を補給してくれたはずだ。
相棒もテント生活に大分慣れてきた様子で設営、撤収もスムーズに息が合ってきた。一日一箱のマイルドセブンと缶ビールは欠かせないようだ。がんばった時は二本買っていた。
それにしても水晶からここまで人に会わなかった。この領域はマイナーなのだろうか。僕は穂高方面より気に入ったが。明日からは後立に入る、今までより頻繁に訪れている山々なので安堵感がある。僕たちがここに居られること、明日からの道のりも着実に進めるよう全てに感謝をささげ眠りにつく。

9月2日 晴れ
  船越小屋(7:00)→針の木小屋(13:00)


空は早くも秋である。くっきりと雲も景色も見渡せ、夏のざわめきも消えてしまっている。何故か寂しさも感じるが。
今日はボーナスステージで針の木までだ。蓮華の大下りを登らなくてはいけないが。毎日登ったり下ったりしていると登ることにアドレナリンを生じなんとも思わなくなる。全てのもの事と同様で精神的なものだが登っている最中より登る前の辛いだろうなと考えることが一番の核心なのだが。北葛岳に出ると蓮華岳への登り返しが見渡せた。少しざれていることを除けばおいしそうな登りだ!相棒が先に行き、あっという間の2時間であった。
ここから針の木小屋までは目と鼻の先である。お昼に到着。ラーメンを小屋で食べ、中で山の雑誌などを読む。活字離れしているので目の速度が遅い気がした。昔の岳人の記事に「自我は成長せず、無我は成長する」ということが載っていた。まさにその通りだと感心した。今の自分自身にとっての無我とは下界のことなど忘れ去り一歩一歩進むことなのである。話すことがないので相棒と偉そうにそんな話をしてみたりする。 
針の木小屋は相棒とは2回目だ。前に山ボードで来たことがありそのときは小屋の半分が埋まっていた。テント場で黒部ダム方面を望みながらくつろぎ今日の一日は終わろうとしていた。

9月3日 晴れのち曇り
  針の木小屋(7:00)→種池山荘(14:50)


7時出発。立山方面から少しばかり湿気を含んだ風が吹いてくる。天気が下り気味の感あり。新越山荘を過ぎると猿の生息地らしく2匹遭遇する。今日の天幕場の種池山荘には15時に到着。本日の歩行は上り下りが少なく楽であった。やっと人里に近づき大町市扇沢の上空である。気分的には日本海の波音が遠くに聞こえてきそうだ。

9月4日 曇りのち晴れ
  種池山荘(7:15)→冷池山荘(10:00)


天気予報だとかなり大きな台風が発生したと告げられていた。今日の予定はキレット超えだったが雨の予報がでていたので超休養ステージとし、3時間程で着く冷池山荘までとする。これで八峰キレットは体力を温存して超えることができるので相棒と喜ぶ。爺ヶ岳山頂に回り込んでから冷池山荘に到着。天場は小屋より上で登り返して10分であった。小屋でカレーを食べた。レトルトだったけどうまかったな。2階が喫茶室になっていたのでコーヒーを飲みながら山岳雑誌のバックナンバーを読みふける。相棒は読み始めると止まらない。小屋で水を買い天場に戻る。今日は雨の予報だったが晴れ間も見えたので洗濯をする。この旅のエコとしてモンベルのオールパーパスソープという何でも洗えて100パーセント土壌分解する液体石鹸・おなじくモンベルのロールペーパーこれも分解するので水や土壌を汚すことはないという文句の製品を持参した。Tシャツとパンツ・ズボンをスーパーのナイロン袋に入れ水を1L注ぎ、洗剤を3滴たらす。しばらく浸けてから直接手もみ洗いをすると泥色になってしまう。2回ゆすぎ、水がもったいないので終了とした。干すのはテントの上に飛ばないよう乗せておくだけ。予備の着替えはパンツ・Tシャツ・ズボン・靴下各々一つある。もう汗臭さなんて気にならないが着替えると繊維の肌触りがやけに優しく感じられた。鹿島槍の双耳峰が美しい。日本百名山の深田久弥が最も好きな山である。初めての鹿島槍はたらっぺ山の会の冬合宿で東尾根第2岩峰まで、翌年の冬は井上さんと東尾根第2岩峰までともに悪天候のため敗退した。その年の5月には井上さんと完登することができた。山は技術体力で登れないことより気象条件によることが多いと思う。今日の天場は僕たちだけだった。明日に備えて8時に就寝。

9月5 雨
  冷池山荘(6:15)→五竜山荘(14:00)


明け方、雨の音で目覚める。天気予報がずれたのかと意気消沈。そのまま寝てしまう。相棒に起こされると雨も小降りなので7時に出発。ガスの上に見え隠れする鹿島南峰と北峰、その間をつなぐ吊尾根が僕たちのモチベーションを上げてくれる。山頂は通過する。これからのキレットが雨の為、滑りやすく心配だ。鉄の梯子やら鎖を利用して鞍部に下りる。北壁やかくね里がガスで見えずじまいだ。そのかわり高度感がわからず恐怖感が消えキレット小屋までスムーズに到着する。昨日の休養で完全に疲れが取れ足取りは快調。小屋で赤いキツネのどんべえをすする。寒かったので温まる。相棒はタバコが針の木で切れずっと買えなかったがこんなとこでやっと手に入れることができた模様。うまそうに燻している。休憩室は貸し切りだ。大きなゴミ箱があり相棒が今までのゴミをさっと捨ててしまった。これは以前T山の会のIさんが小屋の天水を拝借しようとして見つかってしまったことに匹敵するぐらいの罪である。僕はテイクイン・テイクアウトなので本当は捨ててすっきりしたかったが我慢する。ここの小屋の管理人はボーとしていてテッシュペーパーが5個セットを買おうとすると「50円です」というそんなはずもなく親切に「1つ50円ですよね」と教えてあげた。にやりしながら50円を受け取ってくれた。なんでもない出来事であるが何故か心に残る。雨もつよくなりこのまま小屋に居たいが出発する。この旅で一番テンションが下がったときだった。
五竜まではざっと4時間だ。ついに風も出てきたので台風が日本列島に上陸したようだ。
5年ほど前、日本列島に大きな台風が上陸してキャンプ場ごと濁流で流されて死亡者が多数出たときに福田さん、井上さん、飯田さんと剣岳の三の窓に2泊したことがあったが雨も風もそんなに強いという記憶はなかった。台風は2000m付近を通過していくのだろうと呑気に考えていた。五竜までは鎖場の下降が数箇所あり気が抜けなかった。山頂はガスの中でまわりの景色は見えない。すぐに五竜山荘の天場へ向かう。下りなのですぐに着くがさすがにテントはない。小屋に入り受付をした。この旅で一番ストライクな女の子だった。別の意味でこのまま小屋に泊まりたいが我慢してテントを張る。相棒もまさかテントを張るの?って顔をしていた。下着もずぶ濡れだ。テント内でガスを炊き暖をとる。まずは体を温めて乾いた服に着替える。薄っぺらのナイロンの家だがまさに天国である。暖かいコーヒーをすすると気になるのは雨の音と風くらいだ。相棒は「24の瞳」を読み終えたようだ。感動して泣いてはいない。ラジオの天気予報によると今回の台風は日本海に沿って北上してくるという。やっとキレットを超えたのに。このままだと白馬付近で激突する。
明日の予定は白馬鑓ヶ岳の天狗山荘だが...

9月6日 雨
  五竜山荘(7:00)→白馬山荘(16:00)


もう一度受け付けの女の子に会ってから出発しようと小屋に寄る。そうすると愛知の半田市の初老の紳士がコーヒーをおごってくれた。一人で百名山を歩いているという。今回は百名山ハンターが多数いたようだ。朝からパワーも充電でき力強く台風に向かって出発する。さすがに低気圧の接近で寒くなくカッパの内側は汗でびしょ濡れである。2時間で唐松山荘着。山荘も入念な防護壁で窓が覆われている。二重の戸を開けると従業員はストーブで暖をとっていた。中の休憩室に無料で入っていいよと言われ靴を脱いで上がる。自分の靴は中も濡れているが、相棒の靴は新品なので乾いている。小屋の人が心配そうに今回の台風は直撃だから飛ばされないようにねとあながち冗談ぽくなく言ってくれた。実はこの人に見覚えがあり何年か前に不帰V峰Dルンゼを滑りに来て山頂がガスでドロップポイント(雪庇の状況)がわからず小屋を訪ねると親切に教えてくれたのがこの人であった。
自分のことも薄覚えではあるが記憶に残っていたらしかった。結局このときは八方尾根を忠実に滑り下山してしまった。休憩室には菊池哲夫さん(山岳スキーヤー兼写真家)の写真が飾られていた。最近の白馬はバックカントリーのガイド会社がいくつもでき雪山を滑る人が多いらしい。まあゲレンデよりか真っ白な山の斜面のほうが確実に気持ちは良い。相棒も自分に谷川、白馬、立山に連れられてきて山のよさにはまり10年近く勤めた会社を辞め白馬のホテルに勤務していたのだ。結局、30分も休んでしまった。これからは不帰のキレットが待ち構えている。今、国内のトップの滑り手は不帰から厳冬期に滑降しているようだ。八方のスキー場から見ると雪の壁にしか見えないが。不帰の峰は難なく通過。15時に天狗山荘に到着。天場の受付をしようとすると絶対にやめてくださいと言われてしまった。確かに北東(白馬大雪渓)から風が吹き上げてきていた。白馬村の職員だというお姉さんは頑張って白馬の小屋までいったらと言う。急げば夕方には着くし、ここよりか白馬の小屋のほうが安全だという。5月に福田さん、竹中さん、大久保君と剣沢でメイストームに遭遇してエスパース(強度に優れるテント)のポールが夜半に折れ竹中さんと自分で人間支柱になった苦い記憶がある。今回はエスパース凧で日本海に驚異的な速さで到着することも想像するが、小屋で牛丼を食べ白馬の小屋へ向けて出発する。お姉さんが鑓ケ岳、杓子岳の西面をトラバースする巻き道を教えてくれた。雨・風も本当に強くなってきた。今回の旅はすべてテント泊を予定していた。先を急ぎながらどうにか小屋にとまらない方法はないものか考えたが雪倉岳の非難小屋に入るのがそれに近かったが白馬から4時間の距離では無理だ。おそらく相棒も自分が告げない限りテントに泊まると思っているだろう。晴れていれば綺麗な縦走路を急ぎ足で通過した。白馬の頂上小屋が見えてきた。ここで相棒に今日は小屋に泊まろうと告げる。山頂よりの白馬山荘までの最後の石の道をズンズンとすすんだ。17時に小屋に着き受付をすると山荘ができて100年経ったらしく記念手ぬぐいを頂く。会計時何故か万札がいとおしく思った。小屋の乾燥室に行き濡れているもの全てを乾かす。(ほとんど防水袋にいれているもの意外すべて。)部屋に入りすぐに食堂へ行き飯を食べる。1500人泊まれる小屋に自分たちで貸し切りかと思ったらカップルが居た。30歳くらいで山口県から白馬岳を登りに来て足留めされてしまっているそうだ。登山経験は浅く大雪渓が崩壊している箇所(杓子からの土砂の崩落で死者が出た)を通過した時のことを赤裸々に話してくれた。僕たちも少しばかり大げさに相槌をうつ。本当は飯に集中してそんなどころではないのに。食後小屋のテレビを見ていると台風の速度は遅く明日も暴風圏内のようだ。昼過ぎに出発できればなと考えた。携帯電話が圏外だったので小屋の電話で関係者に無事であることを伝える。そして早々と布団に入る。

9月7日 暴風雨
  白馬山荘停滞


風の音で目が覚める。実はよく眠れなかった。2重の窓をたたく音、小屋全体がきしむ音で不安があったのだ。相棒も同じだったとのこと。従業員が半分くらい入ったドラム缶が突風で飛ばされたと話していた。なにはともあれ小屋に泊まったことは正解である。
風・雨は強し。10時にもう一泊することを決める。小屋の読書コーナーで本を読み耽る。
昔の山渓の記録を読むと昔は凄まじく偉大な記録がある。自分たちの力のないことを痛感した。あと山道具屋も今の数倍はあったのではないか。今は山を登るというシンプルな行為を多様化して楽しむ人がいる。道具は一番大切な機能性よりかファッション性がものをいうらしい。白馬山荘の廊下を歩くと自分の廊下をきしませる足音だけが聞こえるので不気味だった。午後になると雨は止んだが風はまだ残る。15時過ぎに外に出ると、山頂が見えたので行ってみる。風は強弱あるがなんとか歩ける。丁度、山頂から井上さんから電話が入った。台風を心配してくれたようだ。井上さんとは5月に主稜を上がり、山頂は暴風でやっと大雪渓の入り口にたどり着いた記憶がある。小屋まではよろけながら戻る。危ない危ない。小屋で過ごした2日間は荷物の整理、心の整理となんとなく僕たちの足取りを落ち着かせてくれたようだ。布団に入り日本海を想像する。

9月8日 曇りのち晴れのち雨
  白馬山荘(6:30)→栂海山荘(17:00)


台風一過のようだがまだ北日本に居るようで風が残る。山頂でザックカバーの紐が切れて飛んでいく。三国境まで行くと風も落ち着く。ここから新潟だ。柳又谷源頭のカールが見える。雪がついた写真しか見たことがなかったのでイメージと違った。雪倉岳の山頂に上がると蓮華温泉へと続く斜面が素晴しい。某岳連のF理事長なら「スノーボー頂き斜面」と微笑むはずだ。この辺りは植生が豊富で気候区分が変わったことに気づく。北アルプスの最後の2000m峰の朝日岳への最後の登りは全力で走った。北アルプスに告げる別れの挨拶として。ここからは栂海新道だ。別名は[さわがに新道]と呼び地元のさわがに山岳会が1961年から整備を続け現在にいたる。湿原や草原や池塘があり桃源郷のようだ。
登山道も崩壊している箇所もあったが歩きやすかった。40年間、維持管理してきたさわがに山岳会には感謝する。この山行を始める前にさわがに山岳会の小野代表に登山道と無人小屋の状況確認の電話を入れた。小野氏は自身満々に[さわがに新道]の良さを語ってくれた。標高が1500m台になると雑木の尾根に開かれた道となる。マムシ・クワガタが多く見られた。雨の中やっと栂海山荘に着く。無人小屋だが小綺麗な小屋でさっと夕飯を済ませ早く寝る。けど、明日のことを考えながら歩いてきた道のりを振り返ると中々寝付けなかった。

9月9日 晴れ
  栂海山荘(6:40)→天嶮日本海(14:30)


何故か早く目が覚め外にでると日本海の朝焼けが見える。寒かったがしばらくたたずむ。ここからは僕たちの日本海へ続く道がはっきりと見える。5時に栂海山荘を後にする。登山道は樹林の中で水たまりがあり歩きにくい。歩いていても蚊が襲ってくるしむわっと湿気がまとわりつく。今日は長い旅の最終日、そのわりには足早になっている。もっとゆっくり歩かなくては・・と気持ちと体が矛盾している。急坂をあがると白鳥小屋に着く。無人の小屋なので中で寝そべる。相棒とスニッカーズを半分にして食べる。どうやら相棒の行動食が切れたようだ。白馬山荘の停滞で食べてしまったのかなー。小屋の屋根に上がる鉄梯子があったので登る。うわーっと日本海がきれいに見える。波の模様まで見える。カムチャッカは見えなかったが海は広い。想像していた通りの日本海だ。このあたりの登山道は上越の山と似ていて木の根などが露出して土も滑りやすい。時たま足の踏ん張りが効かずこける。お互いに疲れが出始めたらしく言葉も少ない。2度ほど舗装路を横切る。さすがに下界はまだ残暑が厳しく大汗がでてくる。地図を確認するとまだ距離はありそうだ。でもここからが本当に長かった。枝道などがあり何回も疑う。相棒とは差がついてしまったので待つことにする。トラックのエンジン音が聞こえるではないか。道路が絶壁の上にあるので自分自身の予想と地形が違っていたことに気づく。最後は急下降で道路まできた。栂海新道の入り口が木枠の門でできていた。5分ほど待つと相棒がきた。2人でずっと歩いてきたのだから一緒にゴール。目の前の小さなホテルの自動販売機のジュースでまずは乾杯。肝心な海はコンクリートとテトラポッドで覆われている。地図で確認すると親知不駅の近くに浜があるようだ。30分ほど国道を歩く。浜には人影は少なかった。泳いでいる人なんていなかった。当初は海に飛び込み歓喜の雄たけびを上げるはずだったのに。日本海に触れただけだった。辿り着いて以外と冷めた自分自身、冷静な自分自身であった。それは相棒もだ。もうはしゃぎすぎる年ではないし。無人の親不知駅で電車を待つ。そしていつもと同じの下山報告を会代表の坂田宅に連絡する。電車に乗るとそのスピード感と学校帰りの女子高校生たちに現実の世界が身にしみる。僕たちはこの社会では堕落者だけど自己の人生においては満ち足りていた。糸魚川駅で降りコンビニのATMで金を下ろして100円ショップで身の回り品を買い込む。そして近くの銭湯へいき、14日分の汗を流す。おばちゃんとジュースを飲みながらたわいもない話をしながらのんびりとくつろぐ。糸魚川は小さな町なので直江津のビジネスホテルで宿泊する。寝袋と土の敷き布団がなじんできていたのでベッドが窮屈な気がしたのは言うまでもない。
 



河童橋から奥穂高岳





西穂まで。。





天狗の逆層スラブ





ジャンダルムをバックに奥穂高岳頂上




北穂高岳頂上





南岳から大喰岳へつづく縦走路





朝日の槍ヶ岳頂上





硫黄尾根





三俣から槍方面





三俣蓮華岳頂上





鷲羽岳と三俣山荘





鷲羽岳頂上





水晶岳頂上





真砂岳





赤牛岳





烏帽子岳





船窪岳までの悪路





針の木岳





鹿島槍ヶ岳





八峰キレット





五竜岳と北尾根の頭





五竜岳頂上





白馬岳山頂





雪倉からの白馬岳柳又谷、旭岳





雪倉岳山頂付近





朝日岳頂上





栂海山荘からの朝焼け





栂海新道入り口





縦走路より日本海を望む





栂海新道登山口

W 旅が終わって

 石橋・飯塚の4つの瞳で眺めてきた道のりもあっという間の出来事であった。

 文頭で僕たちをトラさんとたとえたのは社会から切り離されている点が同じなのとトラさんのような人情味にあふれた旅ではなく北アルプスの風情と触れ合いながらの旅をしたいと思ったからである。 

 結果的には台風という最高の舞台を味わうことができた。このことが僕たちをより山々の懐へと近づけてくれたはずだ。日本海へ着いた時、心寂しい気持ちさえ沸いてきた。 

 初テント泊デビュー戦で並外れた脚力と精神力を維持してくれた飯塚君、後ろからの温かいバックアップがあったからこそ前進できた。

 日本海まで歩けばなにか見えてくる(自分自身が変わる)と思い歩き通したけど得ること(回答)は何にもなかった。

 ただひとつ、永遠にこの山なみが変わらぬ姿であることを願っている・・・そんなことを僕たちに強く気づかせてくれた旅だった。